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【復刻連載】罪滅ぼし?ゴッホはなぜ天文学的価格で流通するのか

2021/12/26 LINE はてなブックマーク facebook Twitter

■ゴッホ 8つの謎を探る旅─第5の謎
(この記事は2011年1月8日付で、内容は当時のものです)

 …あのときの興奮は忘れません。1998年11月19日、ニューヨーク・パークアベニューのオークション会場に、私たちが探し出したゴッホの自画像を出品したときのことです。会場がどよめき、会場にいた250人全員の視線が作品にくぎ付けになりました。その視線で絵に穴があいてしまうのではないか…そんな風に思ったくらいです。

 パリ・マティニョン通りにある競売会社「クリスティーズ」のオークションハウス。2階の広く瀟洒(しょうしゃ)な応接室で、印象派・近代絵画部長のアニカ・グントルムさんはそう語り始めた。責任者としてゴッホ作品の競売に関わった女性だ。

 今、思い返しても、あれは現実でなかったような気すらする。出品した絵のタイトルは『ひげのない画家の肖像』(40・9センチ×32・5センチ)。最低落札価格2500万ドルがスタートだった。5人ほどが激しく応札を繰り返し、水銀柱のように入札価格が上昇していく。まるで、別世界にワープしてゆくような金銭感覚。薄れていく値段というものへの現実感。15分後、落札を告げるハンマーが打ち鳴らされ、7150万ドル(約85億円)の値がついたときも、現実の出来事ではないような気がした。ブラボーという思い、大仕事をなし終えた達成感は、一瞬遅れて、ずっしりとやってきた。

 

 「あの瞬間は忘れません。ゴッホの絵に『医師ガシェの肖像』に次ぐ、史上2番目の値段がついた瞬間でした」

 ただ、この絵の落札者がどこの誰で、この絵が現在どこにあるか、それは決して明かせない秘密だという。

 

 この一件が物語るようにゴッホの絵は美術市場に圧倒的存在感で君臨している。まさに、ケタはずれ、天文学的高値で流通している。生前に売れた彼の絵は、『赤いブドウ畑』1枚だけで、400フラン(現在価格に換算して十数万円程度)に過ぎなかった。

 しかし、約100年後の1987年3月30日、ロンドンのクリスティーズのオークションで、安田火災海上保険(現・損保ジャパン)が『ひまわり』を2475万ポンド(約58億円)で落札。同年11月11日にはニューヨークのサザビーズで『アイリス』が5390万ドル(約72億7600万円)の値をつけた。現在、ゴッホの絵は、1990年5月15日のオークションで8250万ドル(約124億5750万円)で落札された『医師ガシェの肖像』が最高価格だ。この絵は、大昭和製紙名誉会長だった斉藤了英氏が購入したこと、100年間で価格が10万倍以上になったこと、現在、その行方が知れないことでも有名だ。

 貧窮にあえぎ、自分の作品が売れぬ絶望の中で死去した画家と、天文学的な今日の値段、そしてコレクターたちが見せるスペクタクル的で誇示的な消費の世界。彼の絵は、なぜこれほどのハイパーインフレーションを起こしているのか? 

  

 このゴッホ絵画の特権的栄光について、フランスの社会学者のナタリー・エニックさんが、興味深い著作を発表したのは1991年のことだ。

 彼女は、まず、芸術への献身、貧困、忍耐、自殺、早世…といったゴッホの生涯が、孤立、貧困、無私、迫害、殉教などからなるキリスト教の聖人伝のパターンに当てはまりやすいことに注目した。そして、こうした聖人伝を入れ物にしてさまざまなゴッホ伝説が形成され、彼に受難の聖人や聖なる犠牲者のイメージが植え付けられたとした。

 だからこそ、生前のゴッホの画業や人生に対して私たち大衆が理解してあげられなかった、その冷遇への償いの念が、現在も多くの人を彼の展覧会に動員し、彼の作品の高額流通に繋がっているとした。いわば、ゴッホ人気はゴッホへの罪滅ぼしということだろう。

 電話インタビューでエニックさんは、さらに興味深いことを語った。「生前のゴッホを理解してあげられなかったという私たちの罪障感、これも実は錯覚なんです。ゴッホの作品は生前ごくわずかしか展示されず、理解してあげようがない。錯覚をもとに、私たちは彼を偉大なる犠牲者に仕立ててしまった」

画廊に飾られた絵には多くの人が足を止める。ゴッホの生前、その絵が注目を集めることはなかった=オランダ・アムステルダム(撮影・伊藤昌一郎)

 経済的側面からは高額流通は、ある種の権威のお墨付きがあること、そして希少性だと指摘する声が多い。

 お墨付きとしてしばしば登場するのは、1929年にオープンしたニューヨーク近代美術館の初代館長・アルフレッド・バーが作成した、モダンアートのバイブルともいえる図表だ。そこで彼は、ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌ、スーラを20世紀美術の扉を開いた4人の巨匠と位置付け、フォービズム、キュービズムなどの運動に繋(つな)がっていくことを示した。また、1934年にアービング・ストーンが書いたゴッホの伝記小説『炎の人ゴッホ』が、世界的な大ベストセラーになり、映画化されたことも大きい。

 そんな前提に立って、ゴッホ美術館主任研究員のクリス・ストルウェイク氏は、美術市場で絵を手に入れる条件は三つのDという。ニード(必要性)、スピード(決断速く、即座に手を打てること)、グリード(強欲なまでに欲しいと思うこと)の三つだ。

 その上で、ゴッホの作品は現在、そのほとんどが美術館など収まるところに収まり、市場にめったに出ないし、今後も簡単には出そうにない―「それが市場に出る」となれば、強力にこの三つのDが働くという。

  

 電話の声は、理路整然としゆっくりと深みがあった。『西洋名画の値段』などの著書がある美術評論家の瀬木慎一氏は、ゴッホ作品の高額流通についての取材に対しこう言った。「絵の値段は過去の値段の積み重ね、勢いで決まる。絵を買う人は勢いのあるものを選ぶ。勢いのあるアイテムは時代で変わっていくが、ゴッホは、抜群のポピュラリティーがあり、堅実な価格上昇が望め、持っていることがステータスシンボルになる」

 そして持論も語った。「ただ、いくら高値になろうと、その金は作者には全く戻らず、どこかで誰かが巨大な利潤を得ているだけの話である」と。

 今日のゴッホ作品の天文学的価格と、展覧会に集まる膨大な数の人々。そして、画家として報いられることの少なかった生涯。

 私の脳裏に、晩年のゴッホが弟のテオに夢を語った手紙が甦(よみがえ)ってきた。そこには、あまりにもささやかで、切ない、でも生前にはかなわなかった夢がつづられていた。

 〈ある日、ぼくはどこかのカフェで個展が開けるようになると思う〉

(藤田 中)

取材協力(当時) オランダ政府観光局、フランス観光開発機構、西鉄旅行


▼「ゴッホ展―― 響きあう魂 ヘレーネとフィンセント」
 2021年12月23日~2022年2月13日、福岡市中央区の市美術館。オランダのクレラー=ミュラー美術館、ファン・ゴッホ美術館の収蔵品から、ゴッホの油彩画、素描など計52点のほか、ミレー、ルノワールなどの作品も紹介する。主催は福岡市美術館、西日本新聞社、RKB毎日放送。特別協賛はサイバーエージェント。協賛は大和ハウス工業、西部ガス、YKK AP、NISSHA。観覧料は一般2000円、高大生1300円、小中生800円。1月3日、10日を除く月曜休館。12月30日~1月1日と4日、11日も休館。問い合わせは西日本新聞イベントサービス=092(711)5491(平日午前9時半~午後5時半)。

■「ゴッホ展ーー響きあう魂 ヘレーネとフィンセント」のチケットのご購入は
コチラから。

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