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【復刻連載】10年で2千枚…ゴッホが速記者のように制作した理由は

2021/12/25 LINE はてなブックマーク facebook Twitter

■ゴッホ 8つの謎を探る旅─第2の謎
(この記事は2010年12月11日付で、内容は当時のものです)

 横長の1枚の絵が、人の流れを滞らせている。フィンセント・ファン・ゴッホ(1853~90)がこの世を去る数週間前に完成させたとされる『カラスの群れ飛ぶ麦畑』。青と黄色の絵の具が、永久に乾くことがないかのように艶やかに、画面上でせめぎ合う。暗い空を群れ飛ぶカラスが、劇的な逸話に満ちたゴッホの最期を予兆させ、絶筆のように伝説化されている。

 ここはオランダ・アムステルダムのゴッホ美術館。来館者たちは、最晩年に描かれたこの絵で、ゴッホの作品をたどる旅を締めくくる。

 ゴッホの画業は27歳から、自ら命を絶つ37歳までのわずか10年余りに過ぎない。この間に約2千枚もの絵を残した。油彩約900点、素描・水彩が約1100点。単純計算すれば、2日に1枚のハイペースで描いたことになる。

 制作の速度は晩年に向かうほど加速したようだ。35歳から約1年3カ月滞在した南仏アルルではあの有名な『ひまわり』や『アルルの寝室』など200点以上の作品を描いた。人生最期の2カ月余りを過ごしたパリ近郊のオーベール・シュル・オワーズでは70点以上を仕上げている。平均1日1点を超す。まるで、速記者のようなスピードではないか。彼はなぜ、短時間でこれほど多数の絵を描いたのか? その答えを探す旅を、彼の生誕地からスタートさせた。

 チョコレート色のレンガ造りのこぢんまりとした家々が沿道に張り付く。高い建物はほとんどなく、視界の3分の2を鈍色(にびいろ)の空が占めていた。苗木の栽培を主産業とするオランダ南部の町・ズンデルト。ゴッホはこの地で、プロテスタントの牧師の子として生まれた。引っ越しを繰り返した生涯で最も長い、通算13年ほどを過ごした。

 そもそも彼は絵画の神童だったのか? 生誕地のゴッホ記念館の館長ロン・デルフェン氏の答えは「ノー」だった。「画家人生で終始持ち続けた自然への愛着や畏怖(いふ)は、ズンデルトの幼少時代に芽生え育ったものでしょう。好きで絵を描いてはいましたが、特別な才能があったという話はありません」

 では、彼を画業へと駆り立てたものは何だったのか? 彼が画家になると決意したベルギーのボリナージュへ向かった。特急の車中で、年譜をひもといた。

 中等学校を中退したゴッホは16歳のとき、伯父の紹介で美術商・グーピル商会に就職。ロンドン支店に転勤した際に出会った娘に失恋し、仕事への熱意を失った末、グーピル商会を解雇される。

 その後、寄宿学校の助教員や書店員と、職を転々としたが、いずれも長続きはせず、思いを寄せた女性からも拒絶され続けた。ゴッホの前半生を語るキーワードが浮かぶ。それは「挫折」の二文字だ。

 〈ぼくの苦悶(くもん)はただひとつ。どうしたら自分が何か善いことのできる人間になれるか、何らかの目的に貢献する人に、何かの役に立つ人になれないものだろうか〉。ゴッホは、自分が抱く理想や情熱と、現実に折り合いをつけられずにいた。進む道を失った時期の手紙に、彼の苦悩がにじむ。

   
 車窓からは遠くにいくつもぼた山が見えた。フランス国境に程近いベルギー南西部の旧炭鉱地帯・ボリナージュ。父と同じ聖職者を目指したゴッホが25歳の時、臨時説教師として着任した土地だ。彼が拒絶された逸話をどれほど聞くことになるのだろう―そう思いながら下車した。

 「炭鉱作業員から厚い信頼を得ていて、敬意の証しとして『ゴッホ牧師』と呼ばれるほどでした。農民を描いたミレーに憧れ、素描や模写を始めていました」。郷土史家のエドモンド・エミール・サケィ氏の説明は、拒絶され続けたというイメージを覆した。

 ゴッホは劣悪な環境で働く作業員と寝食を共にし、熱心に説教した。献身的な行動で、作業員には受け入れられたが、反対に教会には過剰と疎まれ、資格更新を拒否された。身をささげて取り組んだ仕事すら奪われた。これまで以上の挫折感と絶望感を味わったことは想像に難くない。

 学校にも画商にも、教会にもなじめず、万策尽きたときに残っていたのは、幼少のころから好きだった絵を描くこと、画家という「仕事」だった。退路を断たれ、残った唯一の仕事に集中する以外に生きる道はなかった。

献身的な伝道活動を中断させられたゴッホは、救いを求める炭鉱作業員たちに別れを告げ、
職業としての画家を志した=ベルギー・ボリナージュの炭鉱跡地(撮影・岡部拓也

 でも、なぜ短時間に多くの枚数が描けたのか?

 根本の疑問が解けないまま帰国した。国内で研究者の意見を聞いて回った。

 ゴッホに毎月100~150フランを送金し、画材の調達や臨時出費もまかない、兄の画業を支えた弟・テオのおかげという見解が多かった。

 「ほかの画家たちが情報を集め、どんな主題の絵が売れるかに腐心する中、ゴッホは弟のおかげで、当面絵を売ることは考えず、好きなものだけ描ける環境にあった」。学習院大学の有川治男教授(西洋美術史)は、そう指摘した。

 「弟と対等な関係を保ちたかったのでは」と推測するのは、東京で開催されているゴッホ展のために来日していたゴッホ美術館主任研究員のクリス・ストルウェイク氏だ。

 援助の対価。兄としてのプライド。それがハイペースで制作した理由なのか?

 そんな時、ゴッホの書簡集に気になる一節を見つけた。自殺するひと月ほど前の1890年6月、妹に宛てた手紙。今後、取り組みたいテーマに言及している。〈ぼくが画業のなかでほかのどんなものよりも情熱をもつのは肖像画、現代の肖像画だ。(中略)ぼくは百年たった後にも、そのころの人々に生ける幻と思われるような肖像画を描いてみたい〉

 理想の肖像画は描かれたのだろうか、描く前に彼は人生を閉じたのだろうか?

 今回のゴッホ展の監修者で、前ゴッホ美術館主任学芸員のシラール・ファン・ヒューフテン氏が来日していると聞いて、疑問をぶつけた。

 「ゴッホは常に描きたいものが尽きなかった。いったんテーマを決めると、1シリーズといえるような大量の作品群を残しています。ただ、彼が言うようなテーマで肖像画の大作を描く段階に達していなかった」。理想の肖像画を描く前に、ゴッホは力尽きたのか。

 では、2千枚もの作品を残す原動力は? そう尋ねようとしたときだった。「そして、もう一つ。ゴッホは重要と思った作品には時間をかけていますが、習作として気負わず、すごいスピードで描いたものも多い。本人が重要ではないと見なしていても、われわれからみると、どれも大変に重要な傑作なのですが…」

 ゴッホが残した作品の多くは、渾身(こんしん)の肖像画を世に問うための練習だったのか? えっ、そんなはずは…。(佐々木直樹)

取材協力(当時) オランダ政府観光局、フランス観光開発機構、西鉄旅行


▼「ゴッホ展―― 響きあう魂 ヘレーネとフィンセント」
 2021年12月23日~2022年2月13日、福岡市中央区の市美術館。オランダのクレラー=ミュラー美術館、ファン・ゴッホ美術館の収蔵品から、ゴッホの油彩画、素描など計52点のほか、ミレー、ルノワールなどの作品も紹介する。主催は福岡市美術館、西日本新聞社、RKB毎日放送。特別協賛はサイバーエージェント。協賛は大和ハウス工業、西部ガス、YKK AP、NISSHA。観覧料は一般2000円、高大生1300円、小中生800円。1月3日、10日を除く月曜休館。12月30日~1月1日と4日、11日も休館。問い合わせは西日本新聞イベントサービス=092(711)5491(平日午前9時半~午後5時半)。

■「ゴッホ展ーー響きあう魂 ヘレーネとフィンセント」のチケットのご購入は
コチラから。

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