特別展「アール・ヌーヴォーのガラス ―ガレとドームの自然賛歌―」
2023/04/18(火) 〜 2023/06/11(日)
09:30 〜 17:00
九州国立博物館
2023/05/01 |
19世紀末から20世紀初めにかけて西欧を中心に流行した「アール・ヌーヴォー(新しい芸術)」。その代表の一人として挙げられるのがフランスのガラス工芸家エミール・ガレだ。彼とライバルのドーム兄弟に焦点を当てた特別展「アール・ヌーヴォーのガラス ガレとドームの自然賛歌」(西日本新聞社など主催)が九州国立博物館(福岡県太宰府市)で開かれている。展示作品の一部を紹介しながら、彼らの生涯をたどる。
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1878年、第3回パリ万国博覧会。「月光色」と名付けられたガラスの作品が、人々に新鮮な感動を巻き起こした。
月明かりに照らされているような、淡いブルーのきらめき。透明クリスタルが主流だった当時の流行にあらがうかのように、素地(きじ)はソーダガラスに酸化コバルトを混ぜて着色されていた。ロマンチックなネーミングも功を奏し、ガラス部門の銅賞に輝いたその作品の制作者こそガレだった。この受賞によって、その名が広く知られることになる。
古今東西の技法学ぶ
シャルル・マルタン・エミール・ガレは46年、フランス北東部ロレーヌ地方の都市ナンシーで、高級陶器とガラス製品の企画販売業を営む裕福な家庭に生まれた。リセ(高等中学)で哲学や古典などの教育を受け、植物に興味を持ち、学者の指導を受けながら植物採集にも熱中した。その後留学を経て、父の会社のデザイナーとなる。古今東西のガラス技法に学びながら、独自の表現を模索していた。
19世紀末の欧州には、産業革命による製造業の発展で新興富裕層が生まれ、ぜいたく品だった高級ガラスはもはや貴族だけのものではなくなった。製品は量産されるようになったが、デザインはマンネリ化。バカラなど名門大手が競争を繰り広げる中、ガレは小さな会社ながらもデザインの斬新さで勝負した。
ジャポニスムと戦争
当時の欧州で大きなブームとなっていたのがジャポニスム(日本趣味)だった。日本が初参加した67年の第2回パリ万博には江戸幕府、薩摩藩、佐賀藩が参加。葛飾北斎らの浮世絵や工芸品約2千点を出展した。草花や生き物を題材としたその斬新な構図や表現に、人々は驚いた。
クロード・モネら後に印象派と呼ばれる画家たちが大きな影響を受けたのと同様、ガレもその洗礼を受けた。特に植物を愛するガレにとって、自然をありのままに生き生きと描く日本美術には、強く心を動かされた。
一方で、戦争がフランスに暗い影を落とす。70年、普仏戦争が勃発。24歳のガレも志願兵となるが、翌年フランスは敗北。鉱山資源が豊かでガラス産業も盛んなアルザス地方とロレーヌ地方の北部はドイツに割譲され、多くの住民がナンシーに移住してきた。
自然をリアルに表現
ガレの作品の特徴の一つに、自然観察から得た知識に基づいて植物を写実的に表現したことが挙げられる。当時の欧州の工芸品にも植物を題材にするものはあったが、その多くはパターン化されたものだった。これに対し、ガレは西洋美術では注目されなかったトンボやバッタなど昆虫もモチーフとし、生命をリアルに表現した。
77年、31歳のガレは父の事業を継ぎ、経営者となった。日本美術の影響を昇華させながら、自らのスタイルを確立していく。
「菊にカマキリ文月光色鉢」(84~89年)はどこかユーモラスな表情のカマキリと繊細なタッチの菊が印象的な作品。月光色ガラスの表面には縦横の凹凸が畝(うね)のように施され、金彩による縁取りは日本の蒔絵(まきえ)を連想させる。
「伊万里風縁飾蓋物」(84~89年)は当時の欧州で人気を博していた伊万里焼をモチーフとしつつ、模様に独自のアレンジを加えている。
光の媒体に闇の要素
フランス革命から100年を記念した89年の第4回パリ万博。エッフェル塔がモニュメントとしてお目見えしたこの万博に、ガレは300点のガラス作品を出品している。
「蜻蛉文鶴頸扁瓶」(89年ごろ)では、漆黒のガラスに命消えゆくトンボが浮かび上がっている。力尽きながらも水面に移る己の姿を見つめているようだ。光の媒体ともいえるガラスにあえて黒色という闇の要素を取り入れ、死や悲しみを表現した。色ガラスを重ねた「被(き)せガラス」に模様を浮き彫りにする技法が用いられている。
北澤美術館(長野県諏訪市)の池田まゆみ主席学芸員はこう分析する。
「欧州では作品に理念が込められていなければ芸術品と認められなかった。ガレにはガラス工芸を芸術にしたいという強い思いがあった」
こうした作品は新しい様式と絶賛され、ガレはこの万博でガラス部門のグランプリに輝き、国際的な名声を得た。当時のある批評家はガレを「ナンシーで日本人として生まれた」と評した。
「もの言うガラス」も
ガレは自宅に広大な庭を持ち、世界各地の植物約3千種を栽培していた。ドイツ人医師シーボルトから入手した植物など、日本由来の400種も含まれていたという。ただ鑑賞するだけでなく、生命の起源や種の変遷にも迫る植物学者でもあった。
そうした“学者の目”と共に、ガレには文学を愛し、作品に自らの思いを語らせる“詩人の心”があったと池田主席学芸員は分析する。
「私は灼熱(しゃくねつ)の種をまき(中略)ひそかに神秘の花を摘む」
フランスの詩人ミュッセの詩の一節を後半に引用したこの言葉は、ガレの創作ノートなどに残されている。色ガラスを重ねてその下に模様を仕込み、削り出して浮き上がらせるという、ガレの創作工程を表現している。
伝説を題材にした「龍(りゅう)を退治する聖ゲオルギウス花瓶」(89年ごろ)では、侵略者を撃退する英雄の姿に、普仏戦争に敗れた母国への愛を重ねた。さらに、作品に詩や聖書の一節を刻む「もの言うガラス」も制作した。
自身の創作について、ガレはこう書き残している。
「1本の花を摘むごとに、私は一つのデザインとアイデアを摘み取るのです」
(山本孝子)
■ガラス工芸の歴史
ガラス工芸は西アジアからエジプトに至る古代オリエント地域に誕生した。紀元前16世紀ごろ、溶けたガラスを棒に巻き付けるコアガラス技法によって、容器の形をしたガラスが作られるようになった。
ローマ時代に吹きガラス技法が確立され、大量生産と低価格化が進んだ。ぜいたく品から日用品となったガラスの生産はローマ帝国の拡大とともに各地へ波及。一方で古代の地中海文明の遺産を継承したイスラム世界では、血液を吸い出す吸角器などガラスの新たな形や使い方が生まれた。
中世の欧州では、板ガラスを切って枠にはめて作るステンドガラスが登場。教会の窓などを彩った。
17世紀に入ると、欧州各地で新たなガラス産業が勃興。ボヘミア地方ではクリスタルガラスが作られ、高い透明度と彫琢(ちょうたく)で各地の王侯貴族にもてはやされた。英国では光の屈折率が高い鉛クリスタルガラスが発明された。こうした欧州の影響の下に、江戸時代の日本では薩摩切子など独自のカットガラスが生まれた。
=(4月29日付西日本新聞朝刊に掲載)=
特別展「アール・ヌーヴォーのガラス ガレとドームの自然賛歌」
6月11日まで、福岡県太宰府市の九州国立博物館。西日本新聞社など主催。世界有数のガラスコレクションを誇る北澤美術館の作品を中心に133件を展示。作品は全て写真撮影可能。観覧料は一般1700円、高大生千円、小中生600円。月曜休館(5月1日は開館)。問い合わせはハローダイヤル=050(5542)8600。
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