江口寿史展
EGUCHI in ASIA
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福岡アジア美術館
2020/07/31 |
芸術のあり方について根本から考えさせられたという点で、東日本大震災と新型コロナウイルス感染症とのあいだには、共通する側面がある。むろん、対照的な面も少なくない。前者では、もっぱら文化・芸術に関わる者にいまなにができるかが問われたのに対し、後者では、それ以前に活動そのものが立ち行かなくなるケースが大幅に増えた。ほかにも震災では、地震・津波を通じていかに壊滅的なエネルギーの放出があったとしても、地球の規模で言えば局所的な現象に留(とど)まる。「東日本」という名称が端的にそれを示しているとおりだ。他方、ウイルスの蔓延(まんえん)では、目に見える物理的な破壊こそないものの、その影響は地球をすっぽり包み込むほどの規模に及んでいる。文字通りの「パンデミック」にほかならない。
もっとも、東日本大震災の被害の規模を大きくしたのは、東京電力福島第1原子力発電所でのメルトダウン事故(福島原発事故)にほかならない。そこから放出された膨大な量の放射性物質は、大気や海洋を通じ、ひとつの震災の規模を超えて拡散し、人類そのものへの被害を及ぼす危険をいまなお秘めている。その点で、放射能とウイルスとのあいだには、地球規模と呼んでいいスケールの拡散性において、たがいに共通する性質があると言えるだろう。ただし、福島原発事故で放出された放射能が「直ちに影響がない」とされたのに対して、新型コロナウイルスは、ひとたび重症化すれば、たちまちのうちに致死へと至る例も少なくない。
とはいえ、両者がかくも恐れられるのは、なんと言ってもそれらが「目に見えない」からだろう。ところが芸術とはもともと、視覚的な表象に多くを負う美術やアートであればなおさら、古来より目に見えない世界をどのように可視化するかに知恵を尽くしてきた。たとえばそれは、死をどのように表現するかなど、一種のメタファー(比喩)での次元だったわけだが、放射能やウイルスは比喩ではなく物理的な存在であり、なおかつ目に見えない。こうした事態に対して、表現者がどのように関わることができるかという問題についていえば、東日本大震災と新型コロナウイルス感染症とのあいだには、芸術にとって普遍的な問題が備わっていると言えるだろう。これらの巨大なスケールと、対照的に目に見えないという捉えどころのなさに対し、表現者にとって、どこかに手がかりはないものか。
放射能やウイルスを間接的に視覚化する手段として、私たちはこの十年あまり、マスメディアやネットを通じて、防護服という人工的な皮膜について何度となく目にしてきた。さらに日常的な次元で言えば、防護策としてのマスクがこれにあたる。ところが、原発事故の際に着用したマスクが放射性物質の吸入を避けるためのものであったのに対し、パンデミックでは、体内のウイルスを外部に出さないための効果が主な目的となる。マスクという人工の皮膜の内外で、目に見えないものと接するうえでの関係が入れ替わっているのだ。
いまや私たちの顔の一部になりつつあるマスクは、至極単純なようでいて、ほぼ常態化しつつある災厄の性質ごとに、私たちの体内と外部環境を、まるでメビウスの輪のように循環している。マスクをどう捉えるかは、目に見えない世界を捉えるアートにとって今後、ひとつの鍵となるように思えてならない。(椹木野衣)
=7月30日付西日本新聞朝刊に掲載=
※8月は休載し、9月から再開します。
椹木野衣(さわらぎ・のい)
美術評論家、多摩美術大教授。1962年埼玉県生まれ。同志社大卒。著書に「日本・現代・美術」「反アート入門」「後美術論」「震美術論」など。
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