江口寿史展
EGUCHI in ASIA
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福岡アジア美術館
2021/08/11 |
酷暑下の7月31日、東京での感染者数が初の一日4千人を超え、新型コロナウイルス感染症の拡大が首都圏を中心にいよいよ危機的な状況を迎えつつある。
ところが、緊急事態宣言下であるにもかかわらず、テレビはどのチャンネルをつけても連日連夜の五輪一色だ。ときおり挟まれるニュースで伝えられるコロナ禍の深刻さとの落差があまりにかけ離れていて、同じ国で同時に起きている出来事とはとうてい思えない。
国際オリンピック委員会(IOC)のマーク・アダムス広報部長は、開催中の東京五輪は「パラレルワールド(並行世界)みたいなもの」と発言した。選手村や関係者の移動、競技施設での感染拡大防止対策の万全さを強調し、感染の急拡大と五輪との因果関係を否定するための比喩なのだろうが、中継や報道だけ見ていると、比喩ではなくSF的な意味で、東京五輪は時空を異とする本当の「並行世界」に見えてくる。
こうした並行世界感を増強しているのが、一般の観客がまったくいない試合会場だ。7月23日に開かれた開会式は、その最たるものだった。演出内容の是非は置いても、私にとって最も衝撃的だったのは、無観客のまま開かれる、史上最大規模と言って過言でない国家的スペクタクル(見せ物)だった。いったい、これだけの規模の新競技場を、国を挙げ、膨大な予算と時間と紆余(うよ)曲折を経て、無観客の開会式のために建てたというのだろうか。それこそSFでの出来事のようだった。
と言っても、観客はいないのだから、一般には誰もがテレビを通じて見るしかない。つまり二次的な現実なのだ。だが、二次的な現実を伝えるだけなのであれば、モノとしての巨大な競技施設はなんのために必要なのだろう。よもや無観客の競技場で開会式を開くことが演出の一環であろうはずもないが、実際にはそのように見えた。仮にそうであれば、極端な話、観客席はコンピューター・グラフィックスでもよかったのではないか。
そこで浮かんでくるのが、2006年に国内で五輪招致合戦が繰り広げられた際、建築家の磯崎新が中心となり福岡五輪のために提示するも、結局は採択されなかった「21世紀型オリンピックのための博多湾モデル」だ。ここで21世紀とされているのは、巨大なスタジアムに大観衆を集めて開かれる20世紀型五輪へのアンチテーゼであるのは言うまでもない。
博多湾モデルでは、スタジアムは最初から動員ではなく中継のための「スタジオ」に置き換えられ、情報通信技術を駆使しての世界同時中継が、建築の初期仕様として最大限に重要視されていた。いわばリモート仕様だ。客席を最小限に抑え、博多湾に島のように散らしたのは、その頃に世界を席巻していたテロ対策のためだったが、今ならコロナ禍の隔離と無観客にうってつけだろう。
当時は斬新すぎるとの声もあったようだが、開催中の五輪も、政府がコロナ禍でのテレビ視聴を推奨しているように、もとより遠隔視聴に最適化されており、それでも必要とされる観客は、中継を前提とする興行収入と祝祭的な演出のためだった。最初から中継ありきなのだ。その意味で、巨大なスタジアムはとっくの昔に巨大なスタジオと化していた。
今回の五輪開会式は、目指された20世紀型五輪が、すでに遠い過去のものとなっていたことを、それこそ「並行世界」として露呈したのではないか。(椹木野衣)
=(8月5日付西日本新聞朝刊に掲載)=
椹木野衣(さわらぎ・のい)
美術評論家、多摩美術大教授。1962年埼玉県生まれ。同志社大卒。著書に「日本・現代・美術」「反アート入門」「後美術論」「震美術論」など。
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