江口寿史展
EGUCHI in ASIA
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福岡アジア美術館
2021/06/29 |
先週末(5月21日)、国際オリンピック委員会(IOC)のジョン・コーツ調整委員長が記者会見で発した言葉には一瞬、耳を疑った。開幕が2カ月後に迫った東京五輪の時期に、新型コロナウイルス感染症拡大防止のための緊急事態宣言が日本国内で発令されていたとしても、大会を予定通り開催する姿勢を示したからだ。
国内では、変異したコロナウイルスのまん延に依然として収束の兆しがなく、23日からは医療体制がひっ迫する沖縄県に新たに宣言が発出された。感染力を増した変異ウイルスは、次第に英国株からさらに強力とされるインド株の脅威へと置き換わりつつあり、今月末を期限とする東京や大阪をはじめとする宣言にもすでに延長の声が聞かれている。そんななか、ワクチンの接種はいまだ世代を問わず全国津々浦々に行き届く体制には程遠い。
それでも五輪を開催するというのは、いったいどういうことなのだろうか。まるで悪夢的な想定のSF世界に紛れ込んでしまったかのような気持ちだ。
悪夢といえば、かつて1940年に予定されていた東京五輪は、日中戦争などの国際情勢の急激な悪化を背景に日本政府の手で返上され、開催されなかった。返上の理由には、戦時体制(緊急事態?)を優先する軍部による物資や人員の優先的な確保があったというから、緊急事態下での医療崩壊の危機よりも五輪の祭典を優先する現在の政府のほうが、ある意味、不合理と考えられなくもない。
前回、子供の頃の自分に未来には水や空気を売る世界が訪れると説いても信じなかっただろうということを書いた。同様に、未知のウイルスによる(当時の言い方では)「伝染病」のまん延下でも五輪を開く世界が来るかもしれないと話しても、そんなバカなと答えただろう。果たして、私たちは不合理の世界に突き進んでいるのだろうか。しかし、だとしたらいったいなんのために?
不合理といえば、アートの世界は必ずしも合理性にもとづくものではない。合理的な思考だけではたどり着くことができない想像力によって、現実を相対化し、その先の世界を垣間見せるのがアートの本領だからだ。
それで言うと、やはり前回にこの欄で取り上げたアーティスト、飴屋法水が1996年に第5回メキシコ国際パフォーマンス・フェスティバルで発表した「丸いジャングル」のことを思い出さずにはいられない。
飴屋は、現地で街行く人や来場者に声をかけ、手の指や咳(せき)から採取した体内に潜む様々な雑菌を丸いシャーレで混ぜ合わせることで「闘わ」せ、その力関係を弱肉強食の「ジャングル」に喩(たと)えて見せた。言ってみれば、菌同士による「格闘技」である。たちの悪い比喩だろうか。いや、いま日本でコロナウイルスの従来型が英国株によってすっかり凌駕(りょうが)されてしまったように、それは自然界で実際に起こっていることなのだ。
パンデミック下でなお予定通り五輪が開かれるなら、日本には世界各地から数万人の関係者が訪れるという。十分な対策がされると言われても、大規模な催しに想定外はつきものだ。人類の祭典、地球規模の五輪ならなおさらのことだろう。
かつて飴屋がアートという形式を通じて示した小さな「丸いジャングル」が、21世紀となり令和を迎えた極東の島国、日本での五輪で、変異ウイルスの「巨大なジャングル」にならないことを切に願う。(椹木野衣)
=(5月27日付西日本新聞朝刊に掲載)=
椹木野衣(さわらぎ・のい)
美術評論家、多摩美術大教授。1962年埼玉県生まれ。同志社大卒。著書に「日本・現代・美術」「反アート入門」「後美術論」「震美術論」など。
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