江口寿史展
EGUCHI in ASIA
2024/11/09(土) 〜 2025/01/12(日)
福岡アジア美術館
2020/10/24 |
新型コロナウイルス感染症の拡大防止のため、緊急事態宣言が出された外出自粛期間中、ふだんは通勤や通学のため足早に通り過ぎ、あるいは車の窓越しに見過ごしていた家の付近を、わずかに許された大事な景色として捉え、ゆっくりと時間をかけて歩いた。多くの人がそうだったはずだ。すると、なんの変哲もないかに見えた家の周囲が、意外なくらい変化に富んでいたことに気づいた。
朝、どんな音楽よりも美しい鳥たちのさえずりで目を覚ますと、都会のただなかにも、しっかりと自然が残されていることを知った。道端には季節ごとの草花が葉を伸ばし、花を咲かせ、いろいろな虫たちが競って集まっていた。世界はいま、パンデミックで過去に例を見ない大混乱に陥っている。そんなことが信じられないような日常が、ゆったりと広がっていた。未知のウイルスによる未曽有の危機によってもたらされた、かつてない心の落ち着き--震災や戦争といった局所的なカタストロフと、感染症による地球規模のパンデミックとの違いと言って片付けてしまうことのできない、それは、とても不思議な感覚だった。
他方、そうした「新しい日常」のなかには、私たちがしばしば旅に出る動機のうち多くを占める非日常の体験も、しっかりと残されていた。家の周囲と言っても、少し足を伸ばしただけで、まったく見知らぬ街並みとなり、ちゃんと家に帰れるのか、心配になってくるのだ。距離にしたら、全然たいしたことはないはずだ。へたをすれば、道を一本外れただけかもしれない。それでも「新しい非日常」は、未知であることの不安をもたらした。何度家の方に戻ろうと思っても同じ道に出てしまい、似たようなところをグルグルと回っているだけだったこともある。狐狸(こり)に化かされたみたいだった。そういうときは結局、文明の利器=スマホに頼ることになるのだが、逆に言えば、スマホがなんだか、妖怪から身を守るお札のように感じられてきたものだ。
こうした体験も、昨今しばしば耳にするマイクロツーリズムの一種なのだろうか。いや、違う気がする。道に迷って得られる体験に、経済的な合理性はないからだ。私は、それをあえてドイツ語で「リングワンデルング」と呼んでみたい。山などで道に迷い、方向感覚を失って、同じところを円を描くようにグルグルと彷徨(さまよ)い歩いてしまう状態を指すらしい。そんな言葉がなぜさっと出てくるかというと、瀬戸内にある離島の国立ハンセン病療養所、大島青松園に、昨年の「瀬戸内国際芸術祭2019」から公開された、同じタイトルの作品があるからだ。
作者は美術家の鴻池朋子。と言っても、作品と呼ぶには相当変わっている。鴻池は、隔離された入所者たちが1933年に自力で切り開いた、島北部の小高い山を周回する散策路に、いつしか背丈を超えるシダが生い茂り、立ち入りができなくなっていたのを、ふたたび整備。随所に作品を据え工夫を凝らし、芸術祭の来島者が同じ道を追体験できるようにしたのだ。
芸術はつねに未知の可能性を探求する。しかしいま思うと、鴻池の「リングワンデルング」は、まもなくパンデミックでたがいに遮られることになる私たちの円環状の彷徨いを、かつて隔離され、集団生活を強いられていた人たちが、ひとりになれる時間を求めて近隣を歩いた感覚を通じて、先取りしていたかに思えてくる。(椹木野衣)
=(10月22日西日本新聞朝刊に掲載)=
椹木野衣(さわらぎ・のい)
美術評論家、多摩美術大教授。1962年埼玉県生まれ。同志社大卒。著書に「日本・現代・美術」「反アート入門」「後美術論」「震美術論」など。
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