江口寿史展
EGUCHI in ASIA
2024/11/09(土) 〜 2025/01/12(日)
福岡アジア美術館
2020/04/14 |
現在のアートの基盤を作ったのは、20世紀初頭の社会へと背を向けた前衛美術であり、第1次世界大戦やスペイン風邪のパンデミックといった国家を超えた「国際性/越境性」への反動としての「引きこもり芸術」であった。しかし、世界はそうした内向する芸術をよそ目に「狂乱の20年代」へと突入する。凄惨(せいさん)な悲劇のあとで、歴史にも稀(まれ)に見る大好況が訪れたのだ。だが、それも長くは続かない。1929年の世界恐慌がその狂騒に突然の幕を落とすと、個人の自由よりも国体の維持を優先するファシズムの嵐が世界中で吹き始める。
ファシズムが理想としたのは、西洋近代ではなくギリシャ・ローマの世界だった。隣人を遠ざけ深く内省する精神よりも、他者を圧倒する身体の屈強を誇る「オリンピア」の世界観である。実際、ナチス・ドイツはオリンピックを政策的に極めて重視した。1936年のベルリン五輪で聖火リレーを考案したのもナチスだった。彼らは、すべてを燃やし尽くす火の潔癖さが人類の劣等的な性質を浄化し、より高い次元へもたらすと本気で信じた。だから、ナチスは思想的な偏向を理由に公然と本を焼き、民族的に劣るとしてユダヤ人たちを絶滅収容所という「釜」へと送った。
アートも例外ではない。ナチスから「退廃芸術」と名指しで押収され、各地で焼かれもした絵画の多くは、キュビスムやシュルレアリスムのような前衛美術の産物ばかりだ。無事に残っていればどれも人類が誇る名作となっていただろう。いったいなにが退廃的だったのか。造形的にわかりにくいというのもあった。しかしより根本的には、国家という全体性に寄与しない「引きこもり芸術」であったからに違いない。
ナチスは、自分たちの優等性が、第1次世界大戦やスペイン風邪のパンデミック、世界恐慌といった近代社会が持つ劣等性を乗り越えた先にあると考えていた。芸術においても、私的で脆弱(ぜいじゃく)な表現の自由などではなく、古代ローマの格言にあるとおり、健全な精神は健全な身体に宿るのだ、と言わんばかりに、白亜の新古典主義を模範視した。
それで言うと、日本政府は、来年の夏へと延期になった東京五輪を「人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証」として新たに位置づけし直した。いわば、「震災からの復興五輪」から「人類全体の復活五輪」へと桁上げされたことになる。聖火リレーのための火種は、その時を待つために国土に潜んで待機している。コロナ禍が去ったあと、スペイン風邪後の狂乱の20年代にも似て、経済の「V字回復」に乗り、退廃(ウイルス)を寄せ付けない強靭(きょうじん)(別の意味での国家強靭化計画?)な身体への信奉と過度の健全主義が、一気に流布しないとも限らない。そのためには、人権や行動の制限が恒常化しても仕方がない--事実、パンデミックをもたらしたのは、ほかでもない個人の自由とその原理となる民主主義ではないか、と。
だが、私たちが生きるグローバリズムの世界は、20世紀初頭とは根本的に違っている。ヒトやモノ、カネが動く原理はもう、かつての国際性(インター・ネーション)ではない。単位は地球(グローブ)なのだ。パンデミックは大小の差こそあれ、今後も繰り返されざるをえない。ポスパン(ポスト・パンデミック)とは、パンデミック以後の世界というより、パンデミックが何度でも繰り返される世界でどう生きるかなのだ。引きこもりの芸術は、積極的な籠城のための新しい価値観の萌芽かもしれない。(椹木野衣)=4月9日付西日本新聞朝刊に掲載=
椹木野衣(さわらぎ・のい)
美術評論家、多摩美術大教授。1962年埼玉県生まれ。同志社大卒。著書に「日本・現代・美術」「反アート入門」「後美術論」「震美術論」など。
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