企画展
ソシエテ・イルフは前進する
福岡の前衛写真と絵画
2021/01/05(火) 〜 2021/03/21(日)
09:30 〜 17:30
福岡市美術館
2021/01/15 |
日本が戦争へと向かい、思想への圧力や生活統制が強まる時代に、芸術に夢を見た「前衛」の表現者たち。福岡の「ソシエテ・イルフ」を軸に足跡をたどる。
戦争に向かう時代 芸術写真に託した「超現実」の集団
不思議な夢を見ているような一枚の写真がある。題は「海のショーウィンドウ」。板を組み合わせた構造物にさまざまな貝殻を飾っている。直線的な板と一つとして同じ形がない貝殻は好対照を成し、非現実の世界へいざなう。半面、指でつつけば簡単に崩れそうな不安定さもはらむ。
この今見ても都会的な感覚の写真は、現在から80年余りさかのぼる1938年に発表された。議会の承認を経ずに戦争遂行のために労働力や物資を統制できる「国家総動員法」が日本で公布された年である。
日中戦争(37年)、太平洋戦争(41年)へと突き進み、自由な芸術への圧力も強まっていた。貝殻の一つ一つを人々の個性だとすれば、この写真は全てが戦争のために動員され、多様であるべき価値観が画一化していく世の中への不安を鋭敏に写し取ったと読める。
撮影者は門司市(今の北九州市門司区)出身の写真愛好家、久野久(1903~46)。39年に福岡市で結成された前衛美術家集団「ソシエテ・イルフ」の中心的な存在で、「超現実主義」と訳された芸術思想シュールレアリスムに傾倒していた。
当時、西洋から流入したこの新思潮は、既成の権威に反発する若い層を中心に浸透し、新しい世界の開拓を目指す「前衛」を掲げる団体が次々と生まれた。絵画では「自由美術家協会」(37年)、「美術文化協会」(39年)のほか、美術学生による小グループが複数あった。写真では関西の「アヴァンギャルド造影集団」(37年)や東京の「前衛写真協会」(38年)が活躍していた。
イルフもそんな新しい団体の一つだった。「古い」の逆さ読みを名前に冠し、40年に出した同人誌「irf 1」で<ソシエテ・イルフは前衛的である>と高らかに宣言する。
表現手段の中心は当時広く普及しつつあった写真。主要メンバー7人は写真家の他に画家やデザインの専門家も含み、雑誌に作品や文章を発表する。
写真は記録性よりも実験的な要素が濃かった。手回り品を組み合わせて自ら意図する撮影対象を作り上げる構成写真や、複数の写真を重ねるモンタージュなど、人間の想像力をカメラの科学的な特性によって具現化する新しい潮流を反映した作品だった。
文章では舌鋒(ぜっぽう)鋭く批判を展開する。イルフは<過去の芸術・文化を尊敬し、又之(またこれ)に失望する><我々(われわれ)自身の為めに写真する。それは誰の為めでもない。純粋に自己の為めの燃焼である>と謳(うた)った。宣言通り、現状にやすやすと流されない前衛の精神を強く打ち出す。
「シュールレアリスムや抽象芸術への好奇心と、身の回りのものに造形の面白さを見いだす視線を共有していた」。1987年以来となるイルフの企画展「ソシエテ・イルフは前進する」(1月5日~3月21日)を福岡市美術館で開催する担当学芸員の忠あゆみはそう解説する。
人間の無意識や夢、深層心理に重きを置くシュールレアリスムに強く影響を受けた久野は、<シウル・リアリズムのエスプリ>をつかんだとき<何の変哲もなかった浜辺の丸い石ころ>が輝いて見え、<ポカリと一つ浮いた浮雲>にも果てなく興味が湧くのだと書き残した。身の回りのもので画面を構成し、新鮮な感動を与える作風。撮影対象の多くは収集した珍しい貝殻だった。
新聞販売業を営む家に生まれた久野は少年期に結核を患う。幸い実家は経済的に余裕があり、津屋崎町(今の福津市)の海を望む丘に一軒の家を建てて療養しながら写真に親しんだ。「仕事に就けなかったがお金と時間はある。カメラに関心が向いたのは自然なことだったのではないでしょうか」。長男の春平(84)は推し量る。
現像のための暗室も自宅に備えるほどの熱中ぶり。洋室に男女それぞれの上着を抱き合うように掛けた「失題」(39年)は自信作だったようだ。春平によれば「家に来た人に自慢げに見せていた」という。
春平は父から「勉強せえ」と叱られることもあったが、親戚の子も交えて一緒に遊んだ懐かしい思い出もある。優しい父親の顔もあった久野は、生の痕跡を刻みつけるように写真を撮り、グループの結成を主導した。健康な男が万歳に送られて出征し、余暇や趣味はぜいたくとして敵視された時代。国益のために異論を許さず、雪崩を打つように個性を踏みつける権力や大衆に対して久野は違和感を抱く。多数派に属せない病身だからこそだったのか。
日米開戦が近づく1940年。イルフの面々は、戦地の様子を描いて好評を博した戦争画の展覧会「聖戦美術展」について、同人誌「irf 1」の座談会で手厳しい批評を加えた。
久野が口を開く。<あれだけの労力と絵具によって物されたにしては少しお粗末な感じでもったいない><色んな事情もあったときいているが、つまり絵描き自身に戦争を描こうと云(い)うパッションがあったかどうかが問題だ>
同調したのは福岡市で弁護士をしていた写真愛好家の高橋渡(1900~44)。<もしも御時世だからと云うので世を阿(おもね)り自己に阿ってまで心にもない際物を描いて恬然(てんぜん)として居る人があったとすればまづダメだネ>
前衛絵画の気鋭の担い手と目されていた伊藤研之(1907~78)は<御注文に応じて描きましたと云う気持(きもち)が非常に濃厚だ><絵はあくまで創造でなくてはいけない>と断じた。
1930~40年代の福岡で、最新の芸術動向について意見を交わし、ときに異議も唱えたイルフの面々。創作の面でも互いに影響し合いながら作品を世に問うていく。(諏訪部真)
=(1月4日付西日本新聞朝刊に掲載)=
聖戦美術展
従軍した画家たちでつくる「陸軍美術協会」が1939年と41年の2回、朝日新聞社と共催した展覧会。「国民精神の昂揚」「軍国美術の奨励」を目的とし、日中戦争の前線の模様を描いた作品が出品された。日本と満州国の主要都市を巡回し福岡市でも開催。39年10月の会場は百貨店の岩田屋だった。同協会は太平洋戦争開戦後も数々の戦争画展覧会を企画し、藤田嗣治、中村研一らの作品が支持された。
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