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前衛が見た夢-ソシエテ・イルフとその時代- <5完>「逃亡」以後 《あらゆる文化面へ働きかける行動者》

2021/01/22 LINE はてなブックマーク facebook Twitter

 日本が戦争へと向かい、思想への圧力や生活統制が強まる時代に、芸術に夢を見た「前衛」の表現者たち。福岡の「ソシエテ・イルフ」を軸に足跡をたどる。

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多様な活動短命に 戦後に芽吹く理想 清新な志、今なお

 1940年4月、千葉県の知的障害者施設「八幡学園」の子どもによる絵画展覧会が福岡市・天神のビルで開かれた。学園は「裸の大将」と呼ばれた画家山下清(1922~71)が在籍したことでも知られる。同月5日の九州日報によれば、会期中には専門家の講演会も企画されたという。

 仕掛け人は福岡市の前衛集団「ソシエテ・イルフ」の面々。イルフの活動は、写真などの作品発表や芸術評論にとどまらず、社会啓蒙(けいもう)にまで及んでいたのだ。知的障害について今ほど理解が浸透していたとは言えない当時、障害のある子どもが生み出す作品にも目を向け、紹介していた。

 <単なる写真のグループでなしに、あらゆる文化面へ働きかける行動者>

 集団のまとめ役だった高橋渡が掲げた理想へまい進していたイルフ。個々人の表現には鋭い前衛の意識を打ち出し、教育や異分野交流を通じて地域文化を育みたいという文化団体的な側面もあった。だが、多方面に展開する可能性も秘めていた活動は短命だった。

 結成からまもなく、同人はちりぢりになっていく。39年冬、福岡県庁に勤務していた小池岩太郎が、官設のデザイン研究機関、工芸指導所に異動となり宮城県仙台市へ転勤。40年秋には画家伊藤研之が、活動の場を中国・上海へ移した。

 39年に撮影された不思議な集合写真が残っている。草が生い茂る原野で、背広に帽子姿の同人たちがばらばらの方向に駆けだす瞬間を捉えた「イルフ逃亡」と名付けられた作品。この撮影自体が一種のパフォーマンス芸術のようであり、遊び心が感じられる。

撮影者不詳《イルフ逃亡》 1939年 個人蔵
「ソシエテ・イルフは前進する」(福岡市美術館、3月21日まで)で展示

 太平洋戦争が始まると物資の欠乏もあり自由な表現を貫きにくくなる。44年、高橋が心筋梗塞で死去。43歳の若さだった。戦後の46年には結核を患っていた久野久もこの世を去る。イルフは明確な解散宣言をしないまま、その活動は下火になり、いつしか消える。

 だが、戦前にまかれた種は戦後に芽吹く。中国に渡っていた伊藤研之は、引き揚げると福岡市を拠点に二科展への出品を続けつつ、<あらゆる文化面へ働きかける行動者>として同市に文化人の連合体を作り、教育施設の設置に尽力した。

伊藤研之さん

 1962年、福岡経済界の代表者が結成した「九州文化推進協議会」に、詩人の原田種夫らとともに文化人代表として参加。特に力を入れたのが、芸術と技術の統合を理念とする国立九州芸術工科大学の誘致活動だった。同大は68年に福岡市で開学。九州大芸術工学部として存続している。

 67年には、「九州文化―」が発展的解消をして発足した「福岡文化連盟」の2代目理事長に就任し、文化の土壌づくりを推進する。

 長女の伊藤茉莉(78)は71年1月、父や二科会の画家と福岡市・天神の街頭に立った日のことを今でも思い出す。寒風の中、「福岡市に美術館を」と声を上げて2700人の署名を集めた。この後、市に要望し、福岡市美術館の建設計画が本格化する。

 伊藤は他にもさまざまな団体の役職に就いた。

 「押しつけられたのではなく思いがあって引き受けていた。文化連盟や芸工大も、地域に必要だという気持ちが強かった」。茉莉はそう振り返る。伊藤は茉莉に戦前のイルフについて語ったことはなかったという。ただ、文化の育成を図る組織に深く関わった後半生は、イルフの理想を具現化することにささげられたと言ってもよいだろう。

 伊藤はその間、毎年、二科展への出品や個展を欠かさなかった。異分野の作家と積極的に仕事をし、新聞小説や随筆の挿絵も多い。「絵ならいつでも見てやる」と言い、自宅には若い画家がよく集った。

 78年、71歳で病死した。絶筆「暗い空の日」は建物屋上に立つボーリングのピンが異彩を放ち、若い日のシュールレアリスム絵画もにおわせる作品だった。

 文化団体も目指したイルフの理念を背負った伊藤に対し、ただ一人写真をやめず、時代に埋もれまいとする厳しい制作態度を堅持したのが吉崎一人(1912~84)だ。

吉崎一人さん

 吉崎は福岡商業学校(現在の福岡市立福翔高)入学時にカメラを始めた。西南学院高等部では写真部を創設。戦前に発表した「嬉戯」は白と黒の対比を鮮やかに表現し、人物やオブジェの形を際立たせている。

吉崎一人《嬉戯》1938―41年頃 東京都写真美術館蔵
「ソシエテ・イルフは前進する」(福岡市美術館、3月21日まで)で展示

 戦後は福岡県美術協会の会員となり、貸しアパート業のかたわら、写真展やコンクールに出品した。

 「コンテストで入賞したくて写真をやっている人も多かったが、吉崎さんはそうじゃなかった。自分が撮りたいものをじっくり追求していた」。こう語るのは、巨樹の写真で知られる写真家の榊晃弘(85)=福岡市=である。70年代に吉崎と出会った。

 榊は装飾古墳や眼鏡橋など対象を絞って作品を発表していた。その姿勢に共感したのか、吉崎は20歳ほど年下の榊を職場に訪ねてきたこともあったという。物腰は柔らかく、控えめな人物だった。

 亡くなる年の84年、72歳の吉崎は自らの個展会場で西日本新聞の取材を受けた。カラー写真が普及していたが、発言には白黒作品への自負もにじむ。

 <世の中の仕組みが複雑になったせいか、白と黒で表現するような単純さを、みなさん求めなくなりました。派手な色を省略して、エッセンスだけで見せる、というのが私の信念です>

 老写真家の頑固ではない。吉崎には時代にやすやすとはついて行かない前衛の精神が終生流れていた。

 「イルフ」が生きた激動の昭和以上に、時の流れは速く、構造も入り組む現代社会。だが、芸術表現を通して自己と向き合い、暗い時代を駆け抜けようとしたイルフがあの頃見た夢は、今を生きる私たちの道しるべにもなるであろう。「古い」を逆さに並べた名を掲げた前衛集団の志は、今なお清新でまばゆい。=敬称略(諏訪部真)

=(1月8日付西日本新聞朝刊に掲載)=

 

山下清
東京都出身。病気が原因で軽度の知的障害があった。少年の頃に入園した八幡学園で貼り絵と出合い、才能が開花。医師や学者の評価を受け、戦前から展覧会を開く。1940年からは学園を出て放浪の旅に。花火など好きな景色を目に焼き付けては、色鮮やかな貼り絵に表現し続けて人気を博した。「日本のゴッホ」とも称された生涯は映画やテレビドラマになった。

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