江口寿史展
EGUCHI in ASIA
2024/11/09(土) 〜 2025/01/12(日)
福岡アジア美術館
2020/04/17 |
日本の歴史に目を移せば、権力の中枢が公家から武士へと大きく転じた平安から鎌倉への移行期には、京の都でも大きな天変地異が相次いだ。 随筆の三大古典に数えられ、誰の耳にもなじみ深い鴨長明『方丈記』の書き出し--ゆく河のながれは絶えずして、しかも、もとの水にあらず--は、権力の栄枯盛衰に由来する無常観のあらわれと私なども高校生の時分に教えられた。
だが、全編を読んでみると、大竜巻や大飢饉(ききん)、大地震といった人知を超えた自然の猛威で都の様相がなすすべもなく一変してしまうことへの強い諦念の表明であったことがわかってくる。『方丈記』が日本で初めての災害文学と呼ばれるゆえんである。
このことから、『方丈記』の再読は東日本大震災のあと、ちょっとしたブームとなった。しかし、いま私たちが置かれた新型コロナウイルスという疫病の世界的蔓延(まんえん)のなかで読むと、少し異なる観点から興味をそそる。なによりもまず、『方丈記』とは建築をめぐる話である。
いや、建築というのは大仰すぎる。鴨長明は、なにより京の都に立ち並ぶ贅(ぜい)を尽くした仏教寺院や大邸宅があっというまに失われ、ひとけのない廃墟のようになってしまうのを目の当たりにしてきた。だから、そのような建築に対して、いわば反建築としての方丈を対置し、そのなかにひきこもった。
方丈とは一丈四方、つまり縦横3メートル強ほどの小さな建屋を意味する。西洋に由来する建築の規範をギリシャのパルテノン神殿と考えれば、これを建築と呼ぶのは大変な無理がある。むしろ真逆でさえある。現在の家に例えれば、おおよそ四畳半から五畳半のあいだくらいだろうか。都会のワンルームマンションより狭いかもしれない。
それだけではない。方丈はいまの言葉で言えば「モバイルハウス」であった。立派な建築は、だからこそ自由に動くことができない。動くことができないから、大きな災害に見舞われたらそこで終わってしまう。小さいだけではなく。可動式だからよいのだ。
実際、方丈は組み立てが簡易で、もしも不具合が生じれば、もっと都合のよい場所に移るのも容易だった。現代ならホームレスの段ボールハウスを連想させる。
この可動式のひきこもり家屋を通じて、鴨長明は人里から距離を置き、権力闘争や俗世の欲望を冷静に俯瞰(ふかん)し、猶予された時をもっぱら自然の観察や詩歌の詠唱に費やした。
その意味で『方丈記』は、日本初の災害文学であるだけでなく、日本初のひきこもり文学であるかもしれない。人里を遠く離れて書かれた文学はあまたあるだろう。しかし、可動式の「おたく」に好きなものだけ残し、一人ひきこもって綴(つづ)られた文学は、そうあるものではない。彼(か)の時代には望むべくもないが、もしもネットがあれば、それだけでもうよかったかもしれない。
世界を股にかける大冒険もない。生き馬の目を抜くようなかけひきもない。だが、それでもなお数百年の時を超えて読み継がれるイマジネーション豊かな一大古典を書くことができたのだ。秘訣(ひけつ)は「STAY HOME」だけでよい。驚くべきことではないだろうか。
グローバリズムの時代、アーティストたちは外へと出て人と繋(つな)がり、様々な社会的体験から着想を受けることが奨励されてきた。だが、歴史を振り返れば、少なからずの古典的名作は夢や内的なヴィジョンに多くを負ってきた。
新型コロナウイルスから距離を取り、家にひきこもることで生まれる新しいアートに可能性を探ることは、孤立をバネとする芸術の原点に立ち返ることでもあるのだ。(椹木野衣)=4月16日付西日本新聞朝刊に掲載=
椹木野衣(さわらぎ・のい)
美術評論家、多摩美術大教授。1962年埼玉県生まれ。同志社大卒。著書に「日本・現代・美術」「反アート入門」「後美術論」「震美術論」など。
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